(前略)
「男らしさ・女らしさに縛られず、自分らしさを大切にする」のだというジェンダーフリー教育。「男らしさ」「女らしさ」を無視する人間観の問題点は後述の野牧氏の考察に譲るが、「自分らしさを大切にする」教育にいて、分科会参加者の中から興味深い指摘があった。
以下は、京都府立高校の教師の発言である。
「『自分らしさ』という言葉がちょこちょこと出てくるんですけれども、なんか違うという気があるんです。在日朝鮮人の子が自分らしく本名を名乗っていくという過程には、自分自身の中にある葛藤とかを乗り越えたのかどうかわからないけど、いろんな折り合いをつけながら、周りの子らとの関係にも折り合いをつけながら、自分の姿を取り戻していくというような営みがあるんですね。自分らしく生きるというのは、そんな簡単な言葉ではないだろうと思う。それを子供たちがとても簡単に言ってしまうことの中に、ものすごく、ひ弱なものを感じてしまう。実は自分らしさというのはそんなものを乗り越えながら戦いの中で勝ち取って、子どもたち一人一人が自分との戦いの中で、あるいは周りとの戦いの中で勝ち取っていくものだと思うんです」。
この発言を受けて、「自分らしさ」とは何か、どう教えるのかという議論が始まった。「自分の中でも定義できていないんです」「よく分かりませんが」「難しいのですが」と一様に前置きしながら、「自分を自分で肯定するという部分がすごく大切なんじゃないか」「いいところも悪いところも全部ひっくるめて、それが自分なんだよ、自分らしいということなんだと教えてあげると、子供は、自分でよかった。このままえいいんだということになる。ただ、直すべきところは少しずつ直せるよう努力していこうねとは言う」「家の人にその子のいいところを手紙に書いてもらって、自分のいいところをたくさん蓄えていくなかで自分らしさが確立していく」などの意見発表が相次いだ。
先の京都の教師が再び発言した。「自己肯定、最近の人権教育でもセルフ・エスティーム(自己肯定感、以下SE)という言葉があります。大変唇に甘い言葉やなと思うのですが、小学校では学校や自分が好き、SEが高いと学力も高いが、中学校では必ずしもそうとは言えない。うちの校区の中学校では学力が低い子が学校好きって言うてるんですよ。勉強以外に自分を発揮できる場所があるからです。ところが中学校を卒業して壁にぶつかって、自己実現できなくなっていく。私たちが思っている(教育の)中身は自己肯定ではなく、自己変革ちゃうんかいと思うんですよ。いままでの自分を変えていこうという、その先に自己肯定がある。小学校、中学校の段階で自己肯定は早いやろうっていう気がします」
少し前のことになるが、『世界で一つだけの花』(SMAP)という歌謡曲が大ヒットした。選抜高校野球の行進曲にも選ばれたが、一方で、「そうさ僕らは/世界で一つだけの花(中略)ナンバーワンにならなくていい/もともと特別なオンリーワン」という歌詞をめぐり、努力や競争のない、自分の世界だけで完結した安易な自己肯定を勧めているという批判も起きた。学力が低下し、フリーターやニート(無業者)が増加する現代の若者意識の反映だとも言われた。京都の教師の発言は、この『世界で一つだけの花』の歌詞への批判と同じことを言っているように聞こえる。
京都の教師の意見を裏付けるような発言をしたのは、大分県の高校教師。
「よく、『こういうのが自分らしいんや』というようなことを言う生徒がいます。何が自分らしいっていったら、例えばマスコミなどに取り上げられるタレントとか、雑誌などに取り上げられる東京とかの高校生ぐらいの年代の人たちの姿ですね。私から見ると、何でそんな顔になるのというようなメーキャップをして来ていたりします。でも、それが彼女たちからすると、私らしいというんですね」
「いまの子どもたちは違う意見をぶつけ合うということを本当に避ける傾向がある。何かの感想を書かせたり意見を求めたりした時に、『その人それぞれでいいじゃん』『それぞれの考えでいいじゃん』というような反応が随分でてきます」とは、都立高校教師の発言である。
京都の教師の指摘通り、そして、『世界で一つだけの花』の歌詞への批判通り、安易な自己肯定のなかで子供たちが育ってきているかを伺わせる。京都、大分、東京とも高校の教師であることを考えると、義務教育段階で特にその傾向が強いのではないかと思われる。ほぼ全員が高校に進む時代となり、受験や就職など現実の厳しさと向き合う必要がほとんどない小中学校では、「自分らしさを大切に」と言いながら単に甘やかされてきている−という図式が透けてみえる。
「自分らしさ」をめぐる議論が終わると、共同研究者が次のように総括した。共同研究者は毎回ほぽ同じメンバーが参加していて過去の分科会の議論も把握している。
「初めて本格的にこういう議論を進めて、私はとてもよかったと思っております。事態が厳しくなっているから、こういうことが必要なんだと私は思うんです。男らしさ、女らしさという形で押しつけてきている人たちに対する、究極の反撃カはここをどう捉えるかっていうことだと私は思っています」
思わず耳を疑った。日教組は、ジェンダーフリーが「男らしさ・女らしさや性差を否定している」と批判されるたびに、「『男らしさ・女らしさ』に縛られず、自分らしさを大切にする教育だ」と言ってきたのである。それなのに「自分らしさ」が今回初めて議論されるとはどういうことか。自分たちが批判されるようになったから議論したというのでは、付け焼刃と言われても仕方がないだろう。なるほど、各都道府県を代表するほど熱心に取り組んできているはずの参加者たちが「よく分かりませんが」「難しいですが」などとこぼすはずである。
「バックラッシュ派」の意見にも耳を傾けるべきという意見も少数ながらあった。
「(バックラッシュ派の)ホームページで見たんですが、出産の『無修正』ビデオを観る授業を受け、『お母さん、子供産みたくない』『ものすごく気持ち悪かった』と言っている子供がいる。気持ち悪いというのはしょうがないですよね。だけど、その気持ち悪さを上回る性の大切さ、生命の尊さを教える授業をせえへんのかいなと。私は(バックラッシュ派から)言われたとおりやなと思ったんです。痛いところを突かれているなと。仲間を増やしているつもりが反対派を増やしていると思いました」(三重県の小学校教師)
これも重要な指摘だろう。小学校低学年で性交や性器名称を教えたり、中学生にコンドームを配るような過激な性教育が問題になっているが、性交を教えられた男児が、妹の上にのしかかり腰を振っているのを見て卒倒しかかったという母親の話を聞いたことがある。教えている側は真剣でも、子供たちの受け取り方はさまざまであり、興味本位にしか受け取ることができない子もいる。この教師は、「しっかり考えてやっている仲間ばかりじやない。同僚がやるから、同じ学年の先生がするから、(日教組)女性部に言われるから、せんならんという取り組みがなされている状況を自分の周りでも感じる」と続けたが、そんな程度の動機しか持たない教師に多大な性情報を教えられたら、適切なフォローもないまま子供たちは暴走しかねない。
しかし、この指摘も、「一見すると理にかなっている、正しいなと思わせてしまうようなやり方を向こう(バックラッシュ派)がしているのであれば、それに対抗するようなやり方をこちらもやっていないといけない」といった意見にかき消され、それ以上省みられることはなかった。
これでは、彼らのいうジぇンダーフリー教育は、自分たちの思想や思惑ばかりが先行する「子供不在」の教育だと言われても仕方がないであろう。
ちなみに、先の京都の教師は自分が「トランスジェンダー」であることをカミングアウトしており、三重の教師は「多様な性」論者である。彼らのいう「バックラッシュ派」、いわゆる保守派とは考え方がかなり違う。しかし、子供たちと向き合う熱心さは参加者の中でも一、二を争っていたように思えた。
(後略)
『正論』2005年3月号
「日教組のジェンダーフリー隠しと現場の暴走」より